田野町観光情報・歴史にふれる
江戸時代、田野は「五人衆」とよばれる豪商が軒を並べるなど、商業の盛んな土地でした。岡家(米屋)はそのなかでも随一の豪商で、天保15年(1844)に建築した「岡御殿」は、藩主が参勤交代や東部巡視の時に本陣として使用されました。
敷地内には御殿・茶の間・土蔵・御成門などの建物が保存復元されました。
第一展示室は豪商としての岡家や、土佐藩との関わりを紹介。第二展示室は建築的特徴や参勤交代の様子などを紹介。第三展示室では岡家に代々伝わる貴重な品々を展示しています。それぞれの部屋、展示室を自由に見学できます。藩政末期の雰囲気を味わってください。岡御殿は県東部では最高の格式を持った書院造りの建物で、昭和60年に県有形文化財に指定されています。
詳細はこちら:http://tanocho.jp/tourism/tourism-551
その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれ、強烈な存在感をしめしつつも大衆に親しまれた、高知県初の内閣総理大臣・濱口雄幸(はまぐち おさち)。彼は、高知市五台山唐谷の水口家の三男としてうまれ、旧制第三高等学校在学中、田野町の濱口家の長女夏子と結婚、養子となりました。明治28年帝国大学(現:東京大学)を卒業して大蔵省にはいり、その後、政治家へ。質実剛健さで要職を歴任し、昭和4年に第27代内閣総理大臣に就任します。
この濱口雄幸旧邸は、旧郷士の代表的建物といえるつくりで、約100アール(現在は半分の面積)の敷地に質素な建物、簡素な庭園となっています。邸の前には「なすことのいまだ終わらず春を待つ」の雄幸直筆の碑と胸像が建ち、町指定文化財になっています。
詳細はこちら:http://tanocho.jp/tourism/tourism-546
自分の意志をつらぬき、若くして非業の最後を遂げた勤王の志士・二十三士全員が眠るのが、この福田寺です。
幕末に尊王攘夷を掲げ土佐勤王党を結成するも、政変で投獄された武市瑞山(半平太)を救おうとした清岡道之助を首領とする二十三士。しかし、反乱の徒として捕らえられ、一切の取り調べもなく、幕末の元治元年(1864)9月5日早朝、奈半利川川原で斬首となります。そして、この二十三士の亡骸は、清岡道之助の遺言により福田寺境内に埋葬されました。その3年後に時代は明治維新をむかえ、明治10年には一同の族禄は復活、明治24年には特旨をもって贈位されることとなります。その際、道之助の妻・静女は福田寺の修築をおこない、大正2年には私財を投じて現在の墓碑を建て、再改築をおこないました。境内には顕彰碑や武市半平太の銅像が立ち、墓前には道之助夫人の歌碑があり、県の指定文化財になっています。
二十三士の首領清岡道之助および元老院技官を勤めた弟公張の生家です。清岡道之助は田野村の郷士清岡又三郎の長男としてうまれ、幼い頃に左目の視力を失い、土佐の独眼竜ともよばれました。龍馬とも親しく、向学心に熱い秀才だった道之助は、武市瑞山(半平太)を党首とする土佐勤王党に心を寄せ共に行動します。そして、武市瑞山ら多くの同志が投獄されると、道之助は郷土二十三名のみで武市瑞山らの釈放と藩論統一を嘆願します。しかし、受け入れられず、隣領の阿波で囚われ、一度の取り調べをうけることもなく処刑、無念の死を遂げます。
その、二十三士殉職の地(二十三士公園)から北の山手に、清岡道之助旧邸があります。昭和48年、清岡氏より寄贈され、現在町の指定文化財として保存。写真やパネルが展示してあり、自由に中を見学することができます。(※現在、腐食等により休館中です。)
詳細はこちら:http://tanocho.jp/tourism/tourism-547
田野町にある長法寺は、境内に樹齢300年を越える紅梅(臥竜梅)があることで有名です。この臥竜梅は日本で五本の指に入る名木であり、まるで竜が地をはうように枝が伸びており、早春の開花の時期は美しい花とともに見事な眺めとなります。
この梅木は、もとは旧西福寺にあったのを移植したと伝えられています。西福寺は、八幡宮の北大師堂と地蔵堂の所にあった寺であり、明治初年に廃仏棄釈で長法寺と合併したといわれています。
2月下旬から3月上旬頃が見頃で、その美しい姿を見に多くの人が訪れています。町指定文化財です。
嘉永6年(1853)、土佐藩により田野村岡地に安芸郡奉行所がおかれました。また、翌年の安政元年(1854)には、藩校田野学舎も併設され、敷地内には奉行所や武道館、宿舎、獄舎等が建ち、安芸郡の政治、軍事、教育の現泉地でした。
田野学館は、高知の致道館と並び土佐の藩校として栄え、二十三士の首領・清岡道之助や清岡治之助をはじめ、中岡慎太郎、新井竹次郎、石田英吉、仙石貢、村木雅美など、数多くの人材を輩出、武市瑞山も教えたといわれています。
現在は中芸高等学校がたち、その正門にいたる坂は今も「下駄割り坂」と呼ばれ、南門にはかつての正門があり、岩崎弥太郎が父の裁きを不服として落書をし、投獄されたことで知られています。